ドストエフスキーの「大審問官」

現代社会思想の講義で、ドストエフスキーについての私なりの解釈を紹介します。

以下はその内容です。

参考にするリンクです。
ドストエフスキー(Wikipedia)
大審問官を読もう

私のまとめです。

2016/11/06
『カラマーゾフの兄弟』の「第審問官」の人間観について資料
by shibata
舞台:16世紀、スペインのセヴィリヤ
状況:宗教裁判の時代
「神の栄光のために日ごとに国内に炬火(たいまつ)が燃えて、
華麗なる火刑の庭に
おぞましき異教の者が焼かれたる」
(上記および下記引用は、中山省三郎訳『カラマゾフの兄弟』(角川文庫上巻))

1. キリストの登場と大審問官の登場
キリストはこっそりと、人知れず姿を現わしたのだが、人々は――不思議なことに、――キリストだとすぐに感づいてしまう、ここが僕の劇詩の中ですぐれた部分の一つなんだ、――つまり、どうして人々がそれを感づくかというところがさ。民衆は不可抗力に引きずられて、彼の方へどっと押し寄せたかと思うと、たちまちにしてそのまわりを取り囲み、しだいに厚い人垣を築きながら、その後ろについて行くのだ。彼は限りない憐憫のほほえみを静かにたたえながら、黙々として群集の中を進んで行く、愛の太陽はその胸に燃え、光明と力とはその眼からほとばしり、その輝きが人々の上に照り渡り、彼らの心はそれにこたえるような愛におののく。キリストは人々の方へ手をさし伸べて祝福を与えたが、その体どころか、着物の端に触れただけで、すべてのものをやす力が生ずるのだった。と、その時、幼少からの盲目であった一人の老人が群集の中から、『主よ、わたくしをおなおしくださりませ、さすれば、あなた様を拝むことができまする』と叫んだのだ。と、たちまち眼から鱗(うろこ)でも落ちたように、盲人には主の顔が見えるようになった。
、、、
その棺には、ある有名な市民の一人娘で、七つになる女の子が眠っていた。その幼い死骸は花に埋まっている。『あのおかたが、あなたの子供さんを生き返らせてくださいますぞ』と、悲嘆にくれた母に向かって、群集の中から叫ぶ声が聞こえた。、、、死んだ子供の母のけたたましい叫び声が聞こえる。彼女は、主の足もとへ身を投げて、『もし主キリストでいらっしゃいますならば、この子を生き返らせてくださいませ』と彼の方へ両手を差し伸べながら、叫ぶのだ。葬列は立ち止まって、棺は寺の入口へ――彼の足もとへおろされた。彼は憐憫の眼でそれを見守っていたが、その口は静かに、あの『タリタ・クミ』(少女よ、われなんじに言う、起きよ)をいま一度くり返した。すると、娘は棺の中で起き上がって坐ると、びっくりしたような眼を大きく見開いて、にこにことあたりを見回す。、、、群集のあいだには動揺ととが起こる。この瞬間、寺院の横の広場を、大審問官である僧正が通りかかる。それはほとんど九十に近い老人で、背の高い腰のしゃんとした人で、顔は痩せこけ眼は落ちくぼんでいるが、その中にはまだ火花のような光がひらめいている。

2. 「キリスト」がんだ三つの問い(誘惑)
「この三つの問いの中に人間の未来の全歴史が、完全なる一個のものとなって凝縮している、、、この三つの問いの中にいっさいのことが想像されて、予言されて、しかもその予言がことごとく的中していることが、よくわかるではないか。」

① 第一の誘惑:満足させることで従わせる
「このむき出しになって焼け果てた荒野の石を見よ。もしおまえがこの石をパンに変えることができたら、人間は上品で従順な羊の群れのように、おまえの後を追うだろう、そうしておまえが手を引いて、パンをくれなくなりはせぬか、とそのことばかりを気づかって、絶えず戦々恐恐としておるに違いないぞ」といった。ところが、おまえは人民の自由を奪うことを欲しないで、その申し出をしりぞけてしまった。おまえは、もし服従がパンでわれたものならば、どうして自由が存在し得るか、という考えだったのだ。そのときおまえは人はパンのみにて生くるものにあらずと答えたが、しかし、長い年月の後に、、、《食を与えよ、しかる後われらに善行を求めよ!》と書いた旗を押し立てて、人々はおまえに向かって暴動を起こす。そしてその旗がおまえの寺を崩壊するのだ。、、、《わたくしどもを奴隷になすってもかまいませんから、どうか食べ物をください》というようになるだろう。
、、、
人間という哀れな生き物は、生まれ落ちるとより授けられている自由の賜物を、いちはやく誰かに譲り渡そうとして、その相手を捜し出すことにきゅうきゅうとしていて、この苦しみほど人間にとって切実なものはないのだ。、、、それとも、おまえは人間にとって、安らいのほうが時としては死でさえも、善悪の認識界における自由の選択よりは、はるかに高価なものであることを忘れたのか?

② 第二の誘惑:不安を取り除くことで従わせる
「《もしも、おまえが神の子か否かを知りたいなら、試みに下へ飛んでみよ。なぜなら、下へ落ちて身を粉砕しないように、中途で天使に受け止めてもらう人の話が本にも書いてあるから、その時おまえは自分が神の子かどうかを知ることができるし、天なる父に対するおまえの信仰のほども知れるわけだ》しかし、おまえはそれを聞くと、そのすすめをしりぞけ、かかる術策に引っかかって下へ身を投げるようなことをしなかった。それはもちろん、おまえは神としての誇りを保って、立派にふるまったに違いない。、、、おお、もちろんあの時、あまえがたった一足でも前へ進み出て、下へ身を投ずる構えだけでもしたのなら、神を試みたことになって、たちまちすべても信仰を失い、おまえが救うためにやって来た土に当たって粉砕し、おまえを誘惑したさかしい精霊を喜ばしたに違いない、わしはそれを知っていたのだ。が、くり返して言うが、いったいおまえのような人間がたくさんいるだろうか?このような誘惑を持ち耐える力がほかの人間にもあるなどと、おまえは本当にただの一分間でも考えることができたか?人間の本性というものは、奇跡を否定するようにはできていないのだ。いわんや、そのような生死に関する恐ろしい瞬間に、――最も恐ろしい、根本的な、苦しい精神的疑問の湧き起こった瞬間に、自由な心の決定にのみ頼っていくようにはできていないのだ。、、、けれども、人間は奇跡を否定すると同時に、ただちに神をも否定する。なぜならば、人間は神よりもむしろ奇跡を求めているのだから、――このをおまえは知らなかったのだ。
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いったいおまえのしたと同じことが人間にできると思うのか?あんなに人間を尊敬したために、かえっておまえの行為は彼らに対して同情のないものになってしまったのだ。それはおまえがあまりにも多くのものを彼らに要求したからである。これおが人間を自分の身より以上に、愛した、おまえのなすべきことといえるだろうか?もしもおまえがあれほど彼らを尊敬さえしなかったら、あれほど多くのものを要求もしなかったろう。そしてこのほうがはるかに愛に近かったに違いない。つまり人間の負担も軽くて済んだわけだ。人間というものは弱くて卑しいものだ。

③ 第三の誘惑:安全を与えることで従わせる
おまえはまだあの時にシーザーの剣を取ることができたのだ。どうしておまえはこの最後の贈り物をしりぞけたのだ?おまえがこの偉大なる精霊の第三の勧告を受け入れていたなら、人類が地上で捜し求めているいっさいのものを満たすことができたはずだ。言い換えれば、むべき人と良心を託すべき人と、すべての人が世界的に一致して、のように結合する方法である。なぜというに、世界的結合の要求は、人間の第三にしてかつ最後の苦悩だからである。

3. キリストが誘惑を拒んだ結果は
大審問官によれば、キリストが人間を信頼したために、人々は直前の利益を求め、それを合理化する偶像を見つけだし、自らの自由を権力者に差し出すことになった。現代の最大の病は、神を信じようとしても、信じることができないという事実だ。


柴田 啓文

紹介 柴田 啓文

経済学部教員です。このサイトの管理者の一人です。

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